南仏プロヴァンスの夏はラベンダーの季節です。紫色の絨毯を敷き詰めたようにラベンダー畑が広がり、ラベンダーの芳香に覆われます。穂が大きく、花付きが良く、紫色の見事な畝を作るのは、香料として用いられるラバンジン(Lavandula×intermedia) と呼ばれる品種です。
一方、見た目はラバンジンよりも地味な畑ですが、真正ラベンダー(Lavandula angustifoia)は香りの良さ、繊細さからみれば、ラバンジンに勝ります。そして、標高の高い岩肌の山道には自生している、今日では希少な野生のラベンダーを見ることができます。 言うまでもなく、ラベンダー(正確には真正ラベンダーLavandula angustifolia)はアロマテラピーで最も使われているエッセンシャルの代表格です。
「ラベンダーLavandula」は、「洗う」という意味のラテン語 lavare に由来します。ラベンダーの花や葉をお風呂に入れて香りを楽しむ「ラベンダー湯」の風習は古代からあったもので、箪笥の引き出しに入れるサシェ(ドライハーブのにおい袋)は、中世フランスで“lavandiere”と呼ばれる洗濯女達が、洗い上がった洗濯物にラベンダーを忍び込ませていたのが始まりのようです。
「ラベンダー」はエッセンシャルオイルの名前として最もよく知られているものですが、実際は何種類もある Lavandula 属の種の違いを無視して、十把ひとからげに呼ぶ慣用名にすぎません。 植物の学名(ラテン語)は、属名+種小名+命名者で表されるという二命名法が基本です。
南仏プロヴァンスには、野生ラベンダーLavandula vera (Lavandula angustifolia、Lavandula officinalis とも表記されますが、栽培の真正ラベンダーと区別するために種小名にあえて vera を使う場合もあります)、真正ラベンダーLavandula angustifolia、ラベンダー・ストエカス Lavandula stoechas、スパイクラベンダーLavandula latifolia 、そして真正ラベンダーとスパイクラベンダーの交雑種で一般に「ラバンジン」Lavandula × intermedia (ラバンジンはアブリアリス abrialis 種、スーパーsuper 種、グロッソ grosso 種に分類されます)と呼ばれる ラベンダーが生息しています。 これらはシソ科の Lavandula 属という植物学的に同じファミリーの一員には違いないのですが、それぞれ容姿も生息圏も違います。
水蒸気蒸留によって抽出されるエッセンシャルオイルは、姿こそ皆同じ(つまり暗色ビンに詰められた液体)になってしまいますが、凝縮されたその香りは各自が他と混同されようのない個性をしっかり主張しています。 香りが違えば、当然、エッセンシャルオイルの成分も異なり、作用特性を形成する天然の成分特性(Biochemical specificity のこと。学術的には生物活性物質といい、生物の生理機能に影響を与える物質を示します)も異なります。
これらのラベンダーはそれぞれ日当たりの良い山の斜面に、標高によってその種類を見分けることができるほど、律義に互いのテリトリーを尊重しながら生息しています。 まず、標高 1200m 以上の高地には野生ラベンダーが、少し標高が下がったところに栽培の真正ラベンダーが、そして標高 600m~800m の地帯には、上から「母」である真正ラベンダーと、下から「父」であるスパイクラベンダーにサンドイッチ状に挟まれて、両者の交雑種であるラバンジンが生息しています。
これらのラベンダーの生息圏から離れ、海に面した珪質土の陵にしばし密生して見られるのが、ファミリーの中の異端児ラベンダーストエカスです。ウサギの耳のような苞葉(ほうよう)のついた花が特徴で、高温多湿の日本でもよく育ちます。ケトン類(フェンコン、樟脳)と1,8-シネオールが多く含まれているので、私たちがイメージするフローラルなラベンダーの香りとは全く異なります。
亜種・変種も含めれば、その数何十種類にものぼるラベンダー一族の頂点に君臨するのは、南仏芳香植物相の女王、慣用名「野生ラベンダー」で知られている Lavandula vera (Lavandula angustifolia )です。野生ラベンダーには、フラグランス fragrans とデルフィネンシス delphinensis の 2 つの変種がありますが、芳香分子の絶妙なハーモニーが醸し出す軽やかで瑞々しく繊細な香り、身体・精神感覚に与える影響力の強さと確かさは、栽培されたラベンダーでは得ることのできない、まさにその名が示す通り正真正銘、唯一無比 (“vera”は「本当の」という意味です) の野生ラベンダーならではのものです。 特に高地の岩肌の斜面や羊の放牧地に散在している野生ラベンダーは減少傾向にあり、適切に蒸留された野生ラベンダーの入手はとても困難なものとなっています。
ところで、野生ラベンダー、真正ラベンダー共に、エッセンシャルオイルの良し悪しをみるのに酢酸リナリルの含有率(%)が指標とされる場合があります。酢酸リナリルが 35%を超えるエッセンシャルオイルでないとアロマテラピーに使用できないのではないか、あるいは、酢酸リナリルの含有率が高いほど品質の良いラベンダーであると認識している方が少なくありません。 酢酸リナリル信仰は万国共通のようで、含有率を高めるために人工香料などが添加されているエッセンシャルオイルが市場に存在するほどです。
このような傾向、つまり足りない成分が加えられるのはラベンダーに限ったことではありません。ローズマリーRosmarinus officinalis やユーカリ(Eucalyptus radiata やEucalyptus globulus など)に 1,8-シネオール、タイム Thymus vulgaris にチモールなどが添加されていることがよくあります。 このように後から添加されたエッセンシャルオイルは本来植物の持つ成分バランスを崩しているため、香りがよくないという傾向があります。
それぞれのエッセンシャルオイルには含有成分の目安となる標準値のようなものはありますが、それに全てが収まらないエッセンシャルオイルはアロマテラピーには使えないかと言えば、そんなことは決してありません。天然物ゆえに多少のズレはあって当然。天然物の証拠でもあります。全体のバランスがよければアロマテラピーに用いることができ、好結果を生み出します。
アロマテラピーの観点からエッセンシャルオイルを見れば、大切なのは主要成分だけではありません。 真正ラベンダーでは、微量にしか含まれないクマリン(クマリン類)という成分がありますが、高すぎない温度と圧力の下に丁寧に植物のエッセンスを余すことなく完全蒸留されたエッセンシャルオイルにのみ微量のクマリンが存在します。
このようにエッセンシャルオイルの品質を判定するには主要成分だけに着目するのではなくて、全体の構成バランスを見ることが大切です。それには人間の鼻による香りの試験に加えて、精度の高い GC/MS 分析などが欠かせません。
しかし、実際には科学的な検査や分析も完璧ではなく、例えば野生のラベンダーと栽培のラベンダーを識別できるのは人間の鼻しかありません。本物の野生ラベンダーと栽培ラベンダーの香りを知っている人ならの違いがわかります。香りが違うのですから、成分が違うはずですが、その違いを同定することは現代科学ではいまだに不可能です。 ところが「分析表が付いていれば良いエッセンシャルオイル」という分析表信仰の下に、野生ラベンダーと称し、栽培の真正ラベンダーが高値で販売されていたりもします。業者にだまされないためにも鼻を鍛えて「偽」を嗅ぎ分けたいものです。