よみもの
冬に蒸留するという知恵 ―― シベリアモミが教えてくれる、季節と香りの深い関係
2025年 12月 13日

冬の森が静かに動き出すとき
シベリアの冬は長く、非常に厳しい寒さに包まれます。気温は−40℃近くにまで下がることもあり、森は一見すると、すべての動きが止まったかのような静寂に包まれます。しかし、冬の森は「止まっている」わけではありません。
とりわけ Abies sibirica(シベリアモミ) は、冬に向かって生命活動の質を変化させ、針葉の中に香りの成分を静かに蓄積していきます。
冬に蒸留されたシベリアモミのエッセンシャルオイルが、どこか丸く、やわらかく、深みのある香りをもつのは偶然ではありません。
そこには植物の生理、季節のリズム、そして人の営みが重なり合っています。
冬に蒸留される植物の特徴
一般にエッセンシャルオイルの蒸留は、植物が最も生育する季節に行われることが多いです。例えば、ラベンダーやローズマリーのように、花や葉が最も充実する時期が蒸留の最盛期となります。
しかし、寒冷地に生きる針葉樹の一部は、この原則とは異なる季節のリズムをもっています。冬に向かう針葉樹は、細胞が凍らないようにするため、モノテルペン類(α-ピネン、β-ピネン)や酢酸ボルニル(エステル類)などを針葉の中に蓄積することが知られています。
これらの成分は、
• 細胞膜を安定させます
• 低温ストレスへの耐性を高めます
• 樹体を微生物や外的環境から守ります
といった植物自身の防御の役割を担っています。
Abies sibirica ― 冬の針葉の生理
「凍らない葉」としての構造
シベリアモミの針葉は、極寒の環境に適応した構造です。
• 厚く発達したクチクラ層
• 内部に張り巡らされた樹脂管(レジンカナル)
• 低温下でも最低限の代謝を維持できる細胞構造
特に樹脂管は、揮発性成分と樹脂を貯蔵する役割を担っており、冬には内部の圧力が高まりやすくなると考えられています。
冬に際立つ成分の傾向
シベリアモミに特徴的な 酢酸ボルニルは、やわらかく、ほのかに甘さを感じさせる針葉樹特有の香りをつくる成分です。
寒い時期にはこのエステル類の比率が相対的に高くなる傾向があり、冬のモミのエッセンシャルオイルに独特の丸みと奥行きが生まれる理由のひとつと考えられています。
夏と冬の含有成分の違い
シベリアモミの香りは、季節によってその印象が少しずつ変化します。
夏(成長期)
タイガと呼ばれる高緯度の地域では、夏は短い一方で日照時間が非常に長く、白夜に近い状態が続くこともあります。そのため、この短い期間に太陽の光を最大限に利用して、シベリアモミは集中的に光合成を行います。
• 光合成が活発になります
• 1,8-シネオールやリモネンなど、軽快でシャープな香りを感じやすくなります
• 香り全体の印象は、明るくすっきりしています
冬(休眠・防御期)
タイガの冬は長く、厳寒の中で成長を止め、生命活動を最小限に抑えながら、夏に蓄えた成分を針葉の内部に再配置し、防御のために使います。その結果、香りの成分は外へと拡散するのではなく、内側へと凝縮されていきます。
• モノテルペン類やエステル類の比率が安定します
• 樹脂の密度が高まり、香気成分が凝縮されます
• 香りは、やわらかく、深みのある森林香へと変化します
北海道産のトドマツ(モミ属の近縁種)を対象とした研究では、エッセンシャルオイルの成分が季節によって変動することが確認されており、シベリアモミにおいても、季節と香気成分が深く関係していると考えられています。また、トウヒやマツなど、他の針葉樹でも同様の傾向が報告されています。
雪の下で行われる冬の蒸留
冬の蒸留は、自然条件と人の技術が静かに重なり合う営みです。
採取
• 樹木そのものを伐採するのではなく、間伐材や剪定枝、林業作業で生じた枝葉を活用します
• 雪の中で切り出された枝葉は、低温によって樹脂管の内圧が高まりやすくなります
蒸留
• 氷点下の外気に包まれる環境の中で、蒸留釜は簡易な作業小屋や屋根付きの設備の中に設置されることが多く、作業者の安全と安定した加熱が確保されます
• 冷却工程には、自然の寒気そのものが活かされることが多く、冷却コイルやコンデンサーは屋外の低温環境に置かれます
• その結果、凝縮は非常に安定し、冬に蒸留された精油は、透明感のある香りに仕上がる傾向があります
蒸留後の循環
• 蒸留後に残った植物残渣は、薪や土壌改良材として再利用されます
• 資源は再び森へと還っていきます
シベリアの文化に息づく「冬のモミ」
タイガと呼ばれる針葉樹の大森林は、単なる自然環境ではなく、人々の暮らしと精神文化そのものでもあります。
冬の森の香り
厳寒のタイガの森では、冬の森の匂いを
「морозный запах(凍てつく香り)」 と表現されることがあり、それは、清らかさ、静けさ、そして生命力の象徴でもあります。
バーニャ文化
伝統的な蒸し風呂「バーニャ」では、モミの枝を用い、香りと蒸気に包まれる習慣が今も残っています。冬の森の香りは、人々の日常の中で親しまれてきた「季節の香り」でもあります。
エッセンシャルオイルがもつ「季節の記憶」
冬に蒸留されたシベリアモミが特別に感じられる理由は、次の点に集約されます。
• 寒冷環境に適応した植物の生理
• 成分密度の高まり
• 自然の寒さを活かした蒸留工程
• 北方文化に息づく香りの記憶
• 枝葉のみを用いる持続可能な採取
冬のモミの香りには、森が静かに生き続けてきた時間そのものが、そっと溶け込んでいるように感じられます。
そして、長い冬に終わりを告げ、春が来ると芽吹きの季節になります。
針葉がまだ柔らかいので、防御のために赤い色素(アントシアニン)を含む新芽が出てきます。

初夏から夏にかけては、成長と繁殖の時期です。受粉を行うため、雄花と雌球果が同時に見えます。ぐんぐん樹木が成長する時期です。

秋から冬にかけては、雌球果が木質化して成熟し、種子が完成します。生育が完成し、次世代に繋ぐ準備が完了。越冬へ向かいます。

参考文献:
Satou, T., Matsuura, M., Murakami, S., Hayashi, S., & Koike, K. (2009). Composition and seasonal variation of the essential oil from Abies sachalinensis from Hokkaido, Japan. Natural Product Communications, 4(6), 845–848.
Doi, M., Toeda, K., Myoda, T., Hashidoko, Y., & Fujimori, T. (2019). Seasonal fluctuations of aroma components of essential oils from Larix leptolepis. Journal of Oleo Science, 68(7), 671–677.
Yatagai, M., Ohira, M., Ohira, T., & Nagai, S. (1995). Seasonal variations of terpene emission from trees and influence of temperature, light and contact stimulation on terpene emission. Chemosphere, 30(6), 1137–1149.
Schoss, K., Kočevar Glavač, N., & Kreft, S. (2023). Volatile compounds in Norway spruce (Picea abies) significantly vary with season. Plants, 12(1), 188.
Michelozzi, M., Tognetti, R., Maggino, F., & Radicati, M. (2008). Seasonal variations in monoterpene profiles and ecophysiological traits in Mediterranean pine species of group “halepensis”. iForest – Biogeosciences and Forestry, 1(1), 65–74.
Gershenzon, J., & Dudareva, N. (2007). The function of terpene natural products in the natural world. Nature Chemical Biology, 3, 408–414.
Boncan, D.A.T. et al. (2020).Terpenes and Terpenoids in Plants: Interactions with Environment and Insects. International Journal of Molecular Sciences, 21(19), 7382.